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箱根甲子園 フロント主任 加藤 久幸 のブログ一覧

箱根甲子園

2025/02/03

シリーズ:箱根旧街道を歩く(箱根関所~箱根峠)[4]

2024年4月に「箱根峠越えウォーク大会」に参加しました。 箱根湯本から三嶋大社までの28km。完歩しました。 箱根八里であれば小田原宿から三島宿までの32kmですが、 箱根湯本からなので28kmです。 歩いた実体験からの箱根旧街道の魅力をシリーズでお伝えします。 第4回目は、箱根関所から箱根峠まで 箱根関所の京口御門を出ると、新町、小田原町、三島町と 箱根宿の中心をまっすぐ進みます。 この国道1号の直線は、当時の街道の姿を残しています。 幕末期に撮影された箱根宿の姿を見ると、江戸時代には この街道に沿って両側に家が建ち並び、その中心地には、 湖畔に5軒(小田原町3軒、三島町2軒)、山側に1軒の 本陣(参勤交代の大名・公家・幕府役人などが宿泊した)と 山側に1軒脇本陣(本陣の予備宿泊施設)がありました。 また、最盛期には200軒ほどの家が軒を連ねていました。 「箱根関所南」信号を曲がるとその南側には、正月の風物詩といえる 東京箱根間往復大学駅伝競走の折り返し点があります。 次の芦川入口信号までは旧街道と国道は同じ道をたどります。 信号を右折すると江戸時代の街道と重なり再び山にさしかかります。 この坂が「向坂」です。坂の入口に石仏群があり、往時の杉並木も 石畳も残っていて、味わい深い坂です。 その後、「赤石坂」、「釜石坂」、「風越坂」と続き最後に 「挟石坂」箱根峠にかかる坂です。 峠は当時の浮世絵を見ると伊豆の国を分ける標柱とゴロゴロした石、 それに一面のカヤしか描かれていない、まことに荒涼たる峠でした。 三島の宿までは、ここからさらに四里(16km)近くです。 今回はここまでです。 箱根八里の東坂もここまでです。 次回からは西坂です。

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2024/12/30

シリーズ:箱根旧街道を歩く(箱根甘酒茶屋~箱根関所)[3]

2024年4月に「箱根峠越えウォーク大会」に参加しました。 箱根湯本から三嶋大社までの28km。完歩しました。 箱根八里であれば小田原宿から三島宿までの32kmですが、 箱根湯本からなので28kmです。 歩いた実体験からの箱根旧街道の魅力をシリーズでお伝えします。   第3回目は、箱根甘酒茶屋から箱根関所まで 箱根甘酒茶屋の裏手に石畳道を模したハイキング道が整備されています。 於玉坂を過ぎると、バス停「旧街道石畳」に到着します。 県道はここから急勾配を避け、お玉ヶ池方面に迂回していきますが、 東坂は、ここから白水坂です。この石畳は、東坂の中で最も保存状態が良く、 石畳の両端の範囲がよく残されています。 勾配はありますが、石畳の観察には最も適した場所といえるでしょう。 続く天ヶ石坂は、現存する東坂の中で最も急勾配が長く続く坂です。 登り切ったあたりにある大きな石のことを天ヶ石と呼び、 江戸時代には甘酒小屋があったこともあり、 待ち合わせ場所のように使われたようです。 街道の右側に林を切り開いた休憩場所があり、 そこに「箱根馬子唄の碑」があります。 馬子唄の碑の辺りから権現坂に入ります。 芦ノ湖が見えてくる一番景色のよい下り坂が、権現坂です。 箱根権現(今の箱根神社)への別れ道がある所からついた名です。 坂の長さが8町あるので、八町坂とも言われていました。 芦ノ湖への道は急な坂です。これを降りて歩道橋を渡り終えると、 杉並木の中に到着します。 その後、車道脇を歩きながら進むと葭原久保一里塚があります。 江戸・日本橋から24里です。 そこから少し歩くと江戸時代にタイムスリップしたかのような 杉並木の中を歩いて行きます。 そして国道の横断歩道を渡りしばらく歩くと箱根関所へと到着です。   と今回はここまでです。

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2024/11/25

シリーズ:箱根旧街道を歩く(畑宿~箱根甘酒茶屋)[2]

2024年4月に「箱根峠越えウォーク大会」に参加しました。 箱根湯本から三嶋大社までの28km。完歩しました。 箱根八里であれば小田原宿から三島宿までの32kmですが、 箱根湯本からなので28kmです。 歩いた実体験からの箱根旧街道の魅力をシリーズでお伝えします。 第2回目は、畑宿から箱根甘酒茶屋まで 箱根旧街道は、1923年の関東大震災の復旧の際、 石畳の道は古い!車の通れる道にしよう! となり復旧工事と共に車道へ変わって行きます。 その為、畑宿から元箱根の間は、車道の勾配を緩和する必要から 箱根旧街道の直線的なルートから大きく迂回するルートに変更されました。 箱根八里の勾配は、平均20%以上の区間が多く、部分的には40%以上の場所も 現在の車道勾配が最大12%、平均的なスキー場のゲレンデが25%前後であることを 考えれば、その急勾配の度合いがわかります。 畑宿の一里塚からはじまる西海子坂、樫木坂、猿滑坂と続く坂は東坂の中でも 最も急勾配です。と自分が歩いた道の難易度をアピールしまして、 畑宿の一里塚を過ぎて最初の坂が、西海子坂(さいかち)です。 石畳が良く残っている坂で、二子石特有の黒灰色の石が暗い杉林を 一層暗く感じさせます。そしてなんと言っても箱根旧街道が 箱根新道の上を通過するという不思議な光景を目にします。 続いて、樫木坂(かしのき)。階段脇には、『東海道名所記』の 「橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる」 という狂歌を紹介しています。 涙がこぼれそうになりながら登ったのに、続いて今度は 猿滑坂(さるすべり)です。涙が出るを通り越し絶句です。 歯を食いしばり登り切り、もうすぐ箱根甘酒茶屋というところで 最後に、名前の意味がよく分かる、追込坂(ぶっこみ)です。 前の西海子坂、樫木坂、猿滑坂に比べれば、勾配はありませんが、 前の西海子坂、樫木坂、猿滑坂を乗り越えての坂は、確かに追込でいます。 そして箱根甘酒茶に到着。休憩。 この場所に茶屋がある事のありがたさ! なるほど昔の人は、良く考えてお店を出したものだと思ってしまう。 西海子坂、樫木坂、猿滑坂、追込坂を乗り越えての 甘酒は格別です! と今回はここまでです。

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2024/10/07

シリーズ:箱根旧街道を歩く(箱根湯本~畑宿)[1]

2024年4月に「箱根峠越えウォーク大会」に参加しました。 箱根湯本から三嶋大社までの28km。完歩しました。 箱根八里であれば小田原宿から三島宿までの32kmですが、 箱根湯本からなので28kmです。 歩いた実体験からの箱根旧街道の魅力をシリーズでお伝えします。 第1回目は、箱根湯本から畑宿まで 湯本から畑宿までの間は、江戸時代の街道を使用して車道化したため、 石畳の多くが消失しています。湯本茶屋の先の観音坂や葛原坂付近は、 道が狭く、カーブの多い上り坂が続きます。 須雲川I.C.を過ぎたあたりから、やや平坦になり、少し開けた場所が 江戸時代の間(あい)の村、須雲川の集落。 集落を過ぎて、須雲川自然探勝歩道を歩きます。 かつての箱根旧街道の難所の女転し坂は、 関東大震災で埋もれているので、須雲川に沿って進みます。 須雲川を渡り、旧街道は、県道を右に逸れて割石坂に入り、 古い石畳とハイキング道として修繕した敷石が交互にあらわれます。 続いて、大澤坂。最初は荒れた道が続きますが、木橋を渡り、 新たに設置された堰堤を越えると比較的範囲がはっきりと 縁取りされた石畳が並んでいます。 大澤坂を抜けると畑宿です。畑宿は須雲川と同じく間(あい)の村でしたが、 大名の休憩所としても知られ、多くの旅人で賑わっていた場所です。 畑宿の集落を過ぎると一里塚があります。 江戸から二十三里の位置を示すものです。 畑宿の一里塚は、発掘調査を経て平成10年に復元されました。 ここまで楽しくハイキング気分で歩けます。   今回はここまでです。次回は東海道一の難所です。

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2024/06/16

箱根昔ばなし【箱根の親不知(脚気地蔵)】

  神奈川県・箱根町と静岡県との県境の箱根峠近くの平坦な草むらの中に立つ脚気地蔵(親知らず地蔵)と呼ばれる地蔵尊碑があります。この石碑にまつわるお話です。   時は江戸、大阪で呉服問屋を営んでいた堺屋十郎兵衛の一人息子の喜六が道楽に身を持ち崩した上に、行く先が知れなくなりました。十郎兵衛は一人しかいない子供の事が心配で殊に老い先短い事もあって、なんとか探しあてて、家業を譲りたいと方々訪ね回りました。風のたよりで、息子が江戸で放浪していることを耳にしました。なんとかして息子を探し出そうと老の身もいとわず、息子を探す旅へ、大阪から江戸に向かいました。   ようやく箱根峠近くまでたどり着くと、もう日も暮れかけていました。ちょうどそのとき、運悪く持病の脚気に襲われたのです。持っていた薬を口にする間もなくそこに倒れ、息も絶えるほど苦しんでいました。   すると、たまたまそこを通りかかったのが息子の喜六でした。しかし、まさかこの息も絶え絶えに苦しんでいる老人が、自分の父親だとは夢にも思いませんでした。思わず駆け寄って抱き起こしてみましたが、もはや手の施しようもない状態でした。仕方なく石畳の上に寝かせたとき、老人の懐からずしりと重い財布が抜け落ちました。辺りはもう既に薄暗くなり、どこにも人影は見えませんでした。   魔が差した喜六は老人の腰の道中差を抜いて、一気に老人の息の根を止め、金を奪って一目散に坂を駆け降りました。革財布の中の大金に、一度は喜んだ喜六でしたが、財布の底にあった名札「大阪京橋・堺屋十郎兵衛」からその老人が自分の父親であったことが分かり、びっくり仰天しました。   彼は一目散に引き返して、死骸に取りすがり、泣いて詫びましたが、すべては後の祭りでした。 哀れな喜六が、この事実を書き置きとし山中新田の宋閑寺で、同じ刃で自害したのはその翌朝の事でした。   現在あるこの地蔵尊碑は、土地の人々が、この親子のこの上ない不幸な巡り合わせに同情し、2人の冥福を祈って建てたものです。この碑は以前あった場所から移されていて、当時は「墓」であったと思われます。後年この碑が脚気地蔵と呼ばれ「脚気」に効くと言われ信仰を集めました。

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