スタッフがお届けする現地ブログ

箱根甲子園

~旧跡の景勝地・足柄峠~

2021/07/20

  • My Harvest

  • 0

  • 0

以前、4月28日仙石原から南足柄市を結ぶ「はこね金太郎ライン」が開通しました。という記事を掲載しましたが、この開通によりグッと近くなったのが旧跡の景勝地・足柄峠。箱根甲子園から「はこね金太郎ライン」で車で30分。

箱根外輪山の金時山の北側に位置する標高759mの足柄峠は、縄文時代や奈良・平安時代の土器片が採取されるなど、東国と西国を結ぶ要衝として利用され箱根峠よりも古くから交通の要衝で、官道として利用され、古事記や万葉集にも足柄という地名が残されていおり古事記では、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東征の際にこの地で、亡き妻、弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)を思い「吾妻(あづま=東国)はや」という言葉を発したという記述があります。

平安時代初期の延暦21年1月8日(802年2月13日)、富士山が噴火し、火山弾が道を塞ぐなどしたため足柄峠は閉鎖され、1年間ほど箱根峠が東海道として利用されることとなり、以降は、両方の道が使われるようになっています。

東海道の要衝のため、昌泰2年(899年)、関所が築かれています。

幼名を金太郎と言った坂田公時は、天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となり、頼光四天王の一人といわれるまでに出世したとされています。

平安時代の末、後三年の役のとき新羅三郎義光が、中秋の名月の夜に、家臣豊原時秋に笙の奥義を伝授した物語をはじめ、『更級日記』の著者菅原孝標女ほか、公卿、武士、文人ら数多くの通行史話が残されています。

建武2年12月11日(1336年1月24日)、足利尊氏軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞軍が対決した箱根・竹ノ下の戦いでは、足利尊氏軍が足柄峠に布陣。

戦国時代には峠の駿河国側には足柄城が築城され、小田原城を本城とした後北条第2代当主・北条氏綱、3代・北条氏康らの駿河・甲斐を睨む前線基地として機能しました。

江戸時代には矢倉沢往還の通路となり、甲駿豆遠地方から江戸向けの商人荷物の輸送にも利用された。東麓の矢倉沢に関所跡があり、矢倉沢、関本と竹之下は東西両麓の宿場としてにぎわっていた。

明治以後は陸運会社による輸送が行われていたが、東海道本線(現、御殿場線)の開通で峠の交通量は急減、交通路としての機能を失った。

ただ、雄大な富士山を一望できることから年間を通してハイキング客が多く、足柄峠の景色は「神奈川景勝50選」にも選ばれています。


  • My Harvest

  • 0

  • 0

この記事が楽しめるのは箱根甲子園

箱根甲子園

〒250-0631 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原大原817-253

週間人気記事ランキング

月間人気記事ランキング

施設一覧(ブログ数)